アスタルテ書茶房の開店準備をしていて、ふとセリーヌの墓に赴いたことを思い出した。
忘れていた、というより思い出す機会がなかったに近い。
交換留学でパリに滞在していた2018年か2019年のこと。日本人で訪れたことのある人はあまりいないとは思う。パリの留学生がセリーヌの墓参りに行った、というといたく熱烈な文学青年のように聞こえるかもしれない。しかし、実際はほんのきまぐれに行ったようなもので、セリーヌは好きだったが数冊読みかじったことがあるだけだった。フランスも物見遊山気分で渡ったばかりに、落ちこぼれて実のある留学生活にはならなかった。自分は「形から入るタイプ」で、底の知れてる人間だということを先に白状しておく。
大学に入ってすぐに知り合った友人がゴダール狂で、セリーヌは彼から教わったはずだ。それも奇妙な文脈で。レオス・カラックス『ポンヌフの恋人』に”Dr. Destouches”という眼科医が名前だけ登場する。これはセリーヌから名付けられているんだ、と彼は教えてくれた。カラックスはセリーヌの信奉者であり、この映画はひそかに彼に捧げられているという。セリーヌは筆名で、本名はLouis-Ferdinand Destouches。医師でもあった。
それがきっかけで『夜の果てへの旅』『なしくずしの死』を文庫で読み、感情が煮詰まったような怒涛の文章に心揺さぶられた。また、以前に読んでいたレーモン・クノー『地下鉄のザジ』に頻出する「けつくらえ」がなかなか衝撃的だったこともあり、同じ訳者だと気づいて翻訳家「生田耕作」の名前を覚えた。この時はまだ「京大の先生だったのか」くらいの認識で、翻訳以外の活動については知らない。当然、のちにゆかりの古書店に携わるとは知る由もない。
『夜の果てへの旅』(中公文庫、2003年改版)の著者紹介では末尾にこう記されている。
「特赦で帰国したが、六一年、不遇と貧困のうちに歿し、その墓石には《否(ノン)》の一語だけが刻まれた。」
何ともシビれるエピソードである。
前出の友人に行ってこいと言われたのだったか、ともかくパリにいる間に《否(ノン)》を見に行こうと思い立った。
前後のことはほとんど覚えていないのだが、いま調べるとセリーヌの墓はパリ郊外のMeudonにあるようだ。おそらくメトロかバスで小一時間かけて出向いたのではないだろうか。静かでひっそりした墓地であったような気がする。小さな墓地なので、探し出すのにさほど時間はかからなかった。
その時撮った写真データは散逸してしまったのだが、インターネットで調べると簡単に出てくる(もちろん、自分の眼で確かめたい方は調べる必要はないだろう)。セリーヌの墓石に《Non》の文字はない。
LOUIS FERDINAND CELINE
DOCTEUR L.F DESTOUCHES
1894-1961
とだけ記され、帆船が描かれているのみ。
《否》の伝説はほら話であったわけだが、生田耕作はずっと信じていただろう。確かに、セリーヌの絶望や怨嗟や悔恨に満ちた物語は世界に対して《否》を突きつけ続けている。と同時に、そのほとばしる負の感情は不器用な愛の裏返しにも感じられ、かえって生を鮮やかに浮き彫りにさせているように思える。セリーヌの文学では《Oui》と《Non》の叫び声が相反しながら同時にこだましているようだ。だから、《否》の伝説が打ち砕かれても、それはそれでいいのではないだろうか。
個人の感想をさらに付け加えさせていただくと、墓石に彫られた帆船の絵は『夜の果てへの旅』の最後のシーンを想起させる。物語の最後の数行が一番好きなので、個人的には嬉しく思う。もちろん、墓にこの絵が描かれている経緯は別のところにあるのかもしれない。
セーヌ河と鴨川は似ていなくもなく、空想でもって川面に船を浮かべれば、あいまいな記憶の霧を押し出しながらゆったりと夜を進んでいくような気がする。(G)